【何のための政治か】今こそ核共有の議論をテーブルに乗せろ。

こんにちは。

 

なんとか今月中に1本は出そうとギリギリの更新。

5月中旬は体調を崩していましたが、もう津田は元気です。

 

今日は安全保障における「核」について中心に。

 

これについては、与野党の国会議員を含めてあまりに短絡的な考えの方が多すぎる。

最も近くで国会を見れる立場にいてもそう感じます。

 

先に申し上げておきますが、私は「核の使用」に関しては断固として反対です。

 

最近度々話題に上がる「核共有」に関しては、賛成反対どちらとも言えない立場ですが、それが国民の命と財産を守るために必要な策だと議論が進めば賛成です。

何が何でも核は反対、ということではないということを明確にしておきます。



日本は唯一の被爆国。

小学校から広島長崎に落とされた原爆の悲惨さ、残酷さを何度も教育されてきました。

核兵器の使用は人道に著しく反するものであり、到底受け入れられることではありません。

それは被爆国として歴史が色褪せないよう語り継いでいかなければならないというのは当然のこと。

 

そういった中で1番大事なことを履き違えている人が多いと感じます。

 

1番日本の国民のためになることは、「核に拒絶反応を示す」ことではなく「もう二度と核を落とされないこと」です。

また核を落とされることのないように全力を尽くし、建設的な議論をする必要があるということは言うまでもありません。

 

日本の周りには権威主義的国家、ロシア、中国、北朝鮮があります。

北朝鮮は毎週のようにミサイルを発射し、近々核実験をするとまで言っています。

この国々が、「戦争をやめましょう!」「核をやめましょう!」という声明だけでやめると思いますか。

私は思いません。昨今のウクライナ情勢を見ても明らか。

ロシアはあれだけ世界中から制裁を受けても、今なおウクライナに侵略を続けています。

 

では、核を落とされないため、さらに侵略を受けないためには何が有効か。

100%の正解はありませんが、私はその選択肢の一つとして核を保有する、または共有するということが挙げられると思います。あくまで選択肢の一つとして。

 

その理由は単純で、相手が核を落とそうと考えたとき、侵略をしようと考えたとき、核を落とし返される脅威を感じる、ということです。

 

攻撃をしても仕返しが全く怖くない国と、そうでない国があったら前者の方が攻撃されやすいに決まっています。リスクが少ないから。

 

日本に核を落としたら核を落とし返されるかもしれない、という脅威を与えるという意味では核共有は重要な論点です。



しかし今の国会はこれを議論のテーブルに乗せようとしない。

議論すらせずに拒否しようとしているわけです。

 

議論をして否決されるならわかりますが、議論のテーブルにすら乗せないというのは国会がある意味がありません。



しかしそんな状況でも良識のある一部与党の議員や、立憲民主党などの野党議員にも核共有の議論をしたほうが良いという議員も少数いると聞きます。

そんな個人の声が封じられて議論のテーブルに乗らないのは、選挙対策に他ならないと感じます。

 

来月には参議院選挙がスタートします。

 

国民の関心を集める核兵器の問題は、それを前向きに検討することで、マスコミの情報を表面的に捉える多くの国民の票を失うことに直接繋がります。

原発再稼働の問題もそうですが、票を減らしそうなテーマの骨太な議論は国政選挙の前にはやらない。これが選挙のための政治のやり方です。

 

選挙は民主主義国家における政治のためにあり、民主主義国家における政治はその国民のためにあります。

 

選挙は一部政党や議員の利権や既得権益を守るためにあるものではありません。



国会を見ていて本当にウンザリします。

 

「選挙に勝つために核共有の議論をするかしないか」ではなくて、「核を落とされないために核共有の議論をする」というのが本筋です。

 

もう選挙のための政治はやめましょう。

国家のための、国民のための政治をやりましょうよ。

 

与党議員や立憲などの議員が良識を取り戻すことに期待し、今日はこの辺にしておきます。



津田ふみや